檜山納豆の由来
檜山納豆の由来と納豆の起源

 多宝院の桜
伝 承
江戸時代から受け継ぐ
本物の味を今に
 

東北地方に伝わる納豆の起源はいろいろありますが、どれも古い言い伝えで史料的に確認できるのもはありません。しかし、前九年の役(1051年)で奥州(東北地方)を追われた安倍宗任が平戸の松浦潟(九州)に流された際、熊本で「ナット」を造らせ広めたことが肥後風土記には残されております。
いずれにせよ、上記のことから考えても「糸引きナット」の発祥の地は東北地方であることが推測されます。

檜山(桧山)納豆の発祥についても詳しい史料はありませんが、故河田駒雄氏(元秋田県文化財保護協会顧問)によれば、檜山城主秋田安東氏時代(1452年頃から1602年)に同地区に移り住んだ落人が代々製造を子孫につたえ、江戸時代中頃、加藤新太郎がその後、九嶋長七、九嶋又四郎の両家もこの製法を習い、家伝の秘宝として三軒に限られたのです。加藤新太郎は明治の初め頃、また、九嶋長七は明治17年(1885年)頃廃業しました。大正初めに九嶋儀三郎(後、又四郎を襲名した)、その後、西村長治郎(又四郎の息子)、明治から昭和にかけては西村長蔵、14代目西村庄右衛門(長蔵の息子)だけが代々家伝を守り続けており、現在は15代目庄右衛門(庄右衛門の長男省一)が受継いでおります。
 
 多宝院の山門